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月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。      


by yysatoh

旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生

旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_16241351.jpg6月15日(日)、この日は空は晴れ上がり風も無く、梅雨の合間のすばらしくいい天気だった。
このブログには、小生の勝手で度々登場してもらっている、堀江先生の99回目の誕生日だ。
渋谷のセルリアンタワー東急ホテルのホールで、”白寿”をお祝いして祝宴が催された。
小生夫婦もご案内状を戴いていたので、10年来の”旅仲間”として出席した。
わが仲間は、静岡、横浜、柏、高崎からも駆けつけたので、合わせて5組の夫婦で10人だ。

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奥様は91歳になられたそうだが、大変お元気そうで、開始前には控え室で待機して、挨拶にやって来る招待客の人たちにずーっと笑顔で応対されていた。
出会った当初から数年間は、我々と旅を一緒に楽しまれていたが、その後は車椅子の生活をされるようになったのが残念なことだった。この日は、数年ぶりにお目にかかった。
広いホールを埋めた人たちは、200人に近いと見たが、一通りの挨拶・祝辞に続いて参集された方々の紹介をされた際には、先生の交友の広さ、人脈も凄い! という感じを思い知らされた。
連隊長、師団長、総監当時に世話になった人たちが九州から馳せ参じ、戦友会、郷友連盟、遺族会などや陸士・陸大の後輩、靖国神社に関連する団体の方々、参院議員OB会、陸自出身の現役国会議員、一々覚えていないが、99年間の人生は、友達づくりが上手であった、信頼されて頼りにされて来たんだなあ~、とつくづく感じてしまった。
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ご長男の高橋さんが司会をされた。場馴れした進行ぶりだった。
授与された勲章は他にもいくつもありますが・・・。と紹介したので、写真に撮っていたら、堀江先生が席を立って近寄ってきて「これは戦死者に授与するものだが、生存者でも授与されたのだよ」と、金鵄勲章を指さされた。見れば昭和15年の授章だ。
ヨーロッパ旅の雑談では、戦争のお話をいろいろ伺っている。先生は話術がうまいので、辛いときや苦戦の事も、聞き手にはさほどその辛さや苦戦を実感できないのだが、すばらしい金鵄勲章をもらえるほどの、武功を立てた事は聞いた記憶がない。
13年頃に陸軍中尉で砲部隊の中隊長を務めたと伺っている。敵は中国人で敵地は中国の国内。多分、年齢は23,4才のはず。???どんな武功かな? シャッターを押しながら、ふと考えた。

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旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_1622827.jpg先生の99年をスライドプロジェクターで映写されたので、こまめに我がカメラのシャッターを押し続けた。
その中のいくつかを此処に無断で貼り付ける。
昭和18年11月、陸大を卒業し赴任先になったのがニューギニア。
この写真は参謀肩章をつけている。
51師団参謀の辞令が出た直後だろう。
長男が生まれて数ヶ月後、行き先は戦時中に「・・・生きて帰れぬニューギニア」と云われた厳しい戦地。
同期生100人余の中で唯ひとりの赴任。
制海権制空権は敵方にあり、パラオ、トラック、ラバウル、と敵の目を盗んで渡海し、最後は潜水艦でウエワクへ渡ったそうだ。
51師団へ着任したのが18年12月25日。
兵士たちは、日中は米軍の空襲があるから山中のニッパハウスに潜み、その服装はひどいものだったそうだ。
その半年後の5月24日、陸大の先輩・18軍参謀の二人が空襲で同時に戦死した。
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旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_16213472.jpg堀江先生はその後任として軍参謀に就任した。
この話を聞いたとき小生は、「運のいい人だ」と思った。
半年経過で大抜擢だ。食料は兵士が調達してくれる。敵にまみえる前線には出なくていい。
ところが、ここニューギニアに安住の場所は無かった。
軍参謀役は全部で8名。18軍創設以来3年間の内に延べ17人が就任したが、8名は戦死した。というのだ。食べられる物は何でも食べた。
「僕は胃腸が丈夫なんだよ。細かい事は気にしない」。
旅の間に幾度も聞かされたセリフだ。

旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_16211178.jpg終戦後は11月から復員輸送が始まった。
戦後処理をすべて済ませ、最終船に乗って21年1月に帰国した。
先回、blogに書いた池田武邦先生は、階級章(襟章)を外して巡洋艦酒匂でニューギニアへ迎えに行った、と云われたから、インターネットに載っている大砲を外した軍艦酒匂と、海軍軍人が勢ぞろいした写真を、今回、堀江先生にお見せした。
「空母も氷川丸も来た。入港した船には必ず挨拶に行ったよ。酒匂も覚えているよ」

旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_16204288.jpg昭和27年7月、警察予備隊に入隊。階級は3等警察正。
それまでの6年間は奥様の実家で林業を経営した。
30年3月 2等陸佐
34年8月 1等陸佐
41年1月 陸将補
44年7月 陸将
第3師団長、西部方面総監を務めて退官した。
旧日本陸軍第18軍の高級参謀杉山氏は、三代目の陸幕長になった。初代目、二代目は官僚出身、三代目が旧軍人、生っ粋の陸幕長だ。 田中兼五郎作戦参謀は東部方面総監になった。堀江作戦補助参謀は西部方面総監を務めた。三人とも、戦前は第18軍の参謀だった人たち。特に杉山氏、田中氏は第18軍創設時の七人の参謀メンバーであったし、以来、ニューギニアで戦い抜いて生き残ったのは、このお二方だけである。

旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_16201176.jpg先生は昭和48年3月、西部方面総監を一年間務め上げ、規定により57才で陸自を定年退官した。
退官後は三菱重工の顧問、東京都隊友会会長に就いたが52年7月、奥様は反対され、ご本人も乗り気が無かったが、先輩、友人、知人など周囲から強く推されて、参院選全国区に立候補。82万票を獲得当選、以後2期12年間は政治の世界で防衛、自衛隊関連の国会議員として活躍された。
小生は、これらのご活躍には興味はないが、ニューギニアに17回も渡航して、遺骨の収集・戦没者の慰霊・ご遺族の案内を続けられたという話には、感動している。これらのお仕事は政府の立場ではなく、私人として為されたのだ。

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旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_16193325.jpgご結婚58年(?)目にして撮影することができた栄えあるお二人のポートレート。
右胸に輝くのは勲二等旭日重光章
左胸は副章

先生は手記の中で、陸士の先輩たちを追い抜いて陸大に入れたのは”まぐれだ”とか”中隊長の時に金鵄勲章をもらっているから・・・”とか、かなり謙遜している。
小生と旅の会話の中で「ビルマより苦戦のニューギニアの事は、大学の時には情報が入っていたでしょう」
「知っていたよ」
「どうして卒業即ニューギニアへ、一人だけ行くことになったのですか?」
「まあ、成績が悪かったからだよ」
しかし、生きてて帰れたし、人間としての評価は旭日重光章です。多分、クラスの誰にも劣っていないでしょう。


旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_16183660.jpg正午から始まった広いお祝い会場の大きな丸い10数テーブルには、小生などは見たことも味わったこともない料理が次々と運ばれてきた。
会話と談笑で時間が立って、総料理長が紹介され、和服姿の老紳士が”堀江正夫先生の白寿を奉祝す”を吟じて、続いてわが旅の友・田端夫人が”堀江正夫氏に贈る祝吟”を吟詠した。

旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_16181343.jpg我々は散会に先立ち、ご夫婦を囲んで記念撮影をした。
他のグループも次々と写真を撮っていた。









旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_16175363.jpg奥様泰子先生は料理研究家であって有名人。往年のNHKテレビ料理番組の専属の先生だ。
長女のひろ子先生と、ひろ子先生の長女の佐和子先生も、料理研究家としてテレビ出演や執筆に活躍されている。お二人とも姓を”堀江”として名を馳せている。
先生ご夫婦の長男、長女、次女、孫、ひ孫、婿殿、嫁殿一同が壇上に勢揃いしてご紹介された。

旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_16173117.jpgご長男とひろ子先生のご主人とは、4年前の夏のニューギニア慰霊の旅でご一緒したし、その数年前の北欧の旅では、先生ご夫妻、ご長男夫妻、ひろ子先生ご夫妻とも一緒だったので、互いに既知の間柄である。


旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_1617832.jpg出席者に配られた先生の手記。
年表付きで95ページで構成されている。前半は出生から幼年学校、士官学校、中国戦線、陸軍大学、結婚、ニューギニア戦線、復員、林業に従事まで。
何故、職業軍人への道に入ったのか、詳しい事は知らなかった。
読んでみたら、お父さんは主に水産学校の教育に従事していたそうだ。
叔父が陸軍軍人だったことも原因か? 実兄は海軍機関学校出身の海軍軍人。戦後は自衛隊員の教育や海上自衛隊舞鶴地方総監を務められた人である。
後半は自衛隊入隊から定年退官、参院議員、旧軍関係団体、靖国神社の外郭団体などが綴られている。

旅(戦) 14-18 陸軍少佐・陸将 堀江正夫 先生_e0035868_1616439.jpgこの冊子の原稿は先生がご自身で書かれて、高橋さんがパソコンで清書し、印刷を発注したものだそうだ。
特に戦時中から戦後にかけての他人に対する思いやり、世話になった人への感謝の思い、人との絆など、つくづく考えさせらることが綴ってある。
先生は人格、識見、人柄、すべてにおいて、偉大な人である。

スピーチの内容、語句、語気には老いを感じさせなかった。
本当にこの日はお目出度く、うれしい日であった。

最後に特記して置く。
奥様の勧めがあって、一日15,000歩の散歩を30年間続けたそうである。ここ数年は歩行に難儀を来しているので、実行していない。
旅が好きだ、そうである。公務を含めて海外旅行は250回!
アルコールは一切ダメ。でも自衛隊時代は、若い隊員たちとよく飲み屋へ行った。この話は幾度も聞いた。
by yysatoh | 2014-06-18 22:22 | 旅(堀江先生)